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 住みよい環境とまちづくりをめざして

     

【地区自治会連合会紹介】real estate


西地区自治会連合会


  西地区自治会連合会について



  【自治会数】   11
 
  【加入自治会】  関自治会
            鹿手袋しらさぎ自治会
            鹿手袋第一自治会
            鹿手袋第二自治会
            鹿手袋一丁目自治会
            鹿手袋野方自治会
            武蔵浦和パークホームズウエストコート自治会
            四谷一丁目町会
            四谷二丁目自治会
            四谷三丁目町会
            デュオヒルズ武蔵浦和自治会
            

  【活動拠点】  鹿手袋会館で活動しています。

  西地区の紹介(関地区)

 
1.概要

(1)当地区エリア
 埼京線中浦和駅から西方面1km以内で関地区(1〜2丁目)全エリア対象に構成され緑豊かな住宅地帯です。

(2)地名の由来
 東福寺の北東側のたがい橋(西堀と関の両村で造られた橋故にたがい橋とした)現在はたげの橋と呼んでいる。
 この側に往時番所があったと言い伝えられ、また当時は中仙道の裏街道と称し、したがって一種の関所とも考えられ「関」と称したとも考えられる。

(3)自治会の誕生
 昭和30年創立(現自治会長5代目)
 自治会加入率79%


2.関の歴史

 地区内にある名所・古跡などから想像すると神明神社にある古墳は六世紀後半ころの築造と考えられます。
 また平安時代の作と考えられる東福寺の薬師如来座像などからしても、この土地「関」はかなり早くから開発されたものと思われます。
 
 代表的なものを紹介します。

(1)神明神社古墳(しんめいじんじゃこふん) 浦和市指定(史跡)
 神明神社古墳は土合古墳群の一つで、同古墳群の展開する大宮台地西端の舌状台地の南の残丘上に立地する。
 墳丘の南西部分が神明神社によって削平(さくへい)されているが、他の部分は形を良く止めている。
 高さ4m、直径40mを測る円墳で、土合古墳中はもとより、市内最大の円墳である。


(2)木造如来形坐像(もくぞうにょらいけいざぞう)
     浦和市指定(彫刻) 東福寺
 東福寺本尊で薬師如来像とされている。
 檜の一本造りで、内ぐりはなく、古色、彫眼である。痛みが著しい。肩はやや張り、緊張感のある面相をしている。頭部の螺(ら)髪(はつ)は、切付けで粒が大きく、肉(につ)髻(けい)も大きく高い。 衲(のう)衣(え)は偏(へん)祖(はん)右肩(うけん)で、衣文の刀の切り込みは鋭い。膝前は別木であり、両手先は江戸時代頃の後補と思われる。
 平安時代後期の作と考えられ、損傷は著しいが、市内を代表する古仏の一つとして貴重である。
 尚、昭和48年修理を行った。


(3)阿弥陀三尊種子板石塔婆(あみださんぞんしゅしいたいしとうば)
     浦和市指定 東福寺
 東福寺の墓地造成中に出土したもので、完形を保っている。
 石材は緑泥片岩である。上半には、蓮台に乗る阿弥陀三尊種子が薬研彫で端正に彫られ、瓔珞(ようらく)の下がる天蓋がかかる。
 また、主尊蓮台下側からも瓔珞が下がっている。下半には一対二口の花瓶(けびょう)が線刻され、その間には1315年の鉻が刻まれている。
 制作も優秀で、鎌倉時代末期の典型的な板石塔婆として保存価値が高い。総高129cm・上幅31cm・下幅34,7cm・厚さ3,4cm


3.自治会活動

(1)諸先輩が作り上げた良き伝統文化(挨拶の励行・連帯感など)を大切にし、常に助け合い精神をモットーにし、特に地域主催の各種催しもの等には婦人会・子供会・スポーツ団体が連携し取り組んでおります。
 この力が自治会活動の原動力ともなっております。

(2)従来は防災、防犯、交通対策、環境美化等が中心でありましたが、今後福祉関係にも従来にも増して充実強化を図っていきたいと思います。


(3)今後は更に近隣自治会との交流連携を密にし、地域住民が安全で安心できる街づくり「住んでよかったと思われる地域環境」を構築するため頑張りたいと思います。

 
……関の歴史についての文章は、武蔵風土記、土合郷土史、浦和史等を参考………


  西地区の歴史


関の歴史

 この文章は武蔵風土記、土合郷土史、浦和市史等よりまとめた文章です。古代は一世紀から二世紀にかけて、西日本を中心に多くの小国家が作られていました。

 三世紀の後半頃から、大和朝廷の積極的な統一事業が開始され、この動きが関東地方にも及んできたのは、四世紀後半から五世紀にかけてと言われます。この時大和朝廷に服属した豪族の首長たちは、国造となりました。この時代武蔵国にはまず崇神天皇の時(五世紀の中頃)に知々夫国造が置かれ、次いで成務天皇の時、邪志国造と胸刺国造が置かれたと伝えています。
 
 古墳の分析から見ますと、現在の大久保古墳群や土合古墳群は邪志の国造が、北埼玉、北足立、入間郡などを支配した事が窺われ、浦和市地域内もその支配を受けた事がうなづかれます。

 土合、大久保地区は、浦和市内でも古くから開発の進んだ地域で、古墳群の存在によってもそれがうかがえます。

 神明神社にある古墳は、六世紀後半頃の築造と考えられます。当地の開発支配を知る貴重な文化財です。尚、平安時代の作と考えられる東福寺の薬師如来座像など残されている事からしても、この土地「関」はかなり早くから開発されていたと想像されます。
 
 その後鎌倉、室町時代の歴史は見当たりませんが、江戸時代には足立郡関村と称し正保年間の頃は水野出雲守が知行、その後幕府直轄領となり村高九八石余、戸数十七、東西二十町余、南北は二丁に過すと記され、明治初年の税地は田五町余、畑六町余と記されております。

 土合郷土史の伝説によると、昔関村は東福寺の北東側のたがい橋(西堀と関の両村で造られた橋故にたがい橋とし、現在では、たげの橋と呼んでいる)の側に往時番所があったと言い伝えられ、また当時は中仙道の裏街道と称し、一種の関所とも考えられ「関」と称したとも考えられるが、真偽のほどは判らない。

 また武蔵風土記には東福寺境内の小判という伝説があります。